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【Will&Nexus 03/49】目が見える。それだけで、十分だった。

2026 2/19
Will&Nexus
2026-02-182026-02-19
Keisuke Ishino
目次

目が見える、ということ

記事01[※1]で、網膜剥離の手術のことを書いた[※1]。

手術は成功した。左目の視力は戻った。退院して、久しぶりに外に出た朝、何でもない風景が妙に眩しかった。コンビニの看板。歩道の白線。自動販売機の光。何も変わっていない、いつもの景色だ。でも、「見える」ということの重みが、全然違った。

手術前、最も怖かったのは「目が見えなくなること」だった。仕事のことでも、将来のことでもなく、ただ「視界が消えること」が怖かった。

そして、見えるようになった瞬間、気づいた。

自分はずっと「もっと何かを手に入れなければ」と走ってきたけれど、すでに手に入っているものだけで、十分にありがたい。

目が見える。歩ける。考えることができる。それだけで、実は人生の8割くらいは成り立っている。


欠乏感というエンジン

「もっと成果を」「もっと評価を」「もっと上のポジションを」。

ビジネスの世界では、この「もっと」がエンジンだとされている。向上心。成長意欲。ハングリー精神。足りないから頑張る。足りないから走り続ける。

それ自体は悪くない。欠乏感がエネルギーになることは確かにある。

でも、欠乏感をエンジンにし続けると、一つの問題が起きる。

永遠に満たされない。

「もっと」の先には、常に次の「もっと」がある。年収が上がっても、ポジションが上がっても、評価が上がっても、すぐに次の「もっと」が出てくる。ゴールラインが動き続けるマラソンだ。

走り続ける体力があるうちはいい。でも、体力が尽きたとき、「こんなに走ったのに、まだ足りないのか」という絶望が来る。


欠乏感が設計を歪める

もう一つ、もっと実務的な問題がある。

欠乏感で動いている人は、判断が「足りないものを埋める」方向に偏る。

新しい制度を入れたい。新しいツールを導入したい。新しい人材を採用したい。何かを「足す」ことで、足りないものを補おうとする。

でも、設計者の目で見ると、問題の多くは「足りない」から起きているのではなく、「すでにあるものの使い方がズレている」から起きている[※2]。

評価制度が機能しないのは、新しい制度が足りないからではなく、今の制度の運用が目的とズレているからかもしれない。チームがまとまらないのは、新しいメンバーが足りないからではなく、今いるメンバーの配置が噛み合っていないだけかもしれない。

欠乏感で動いていると、この「すでにあるもの」が見えなくなる。「足りない」というフィルターが、「すでに持っている」を隠してしまう。

充足感から出発する設計と、欠乏感から出発する設計では、見える景色がまったく違う。


「足るを知る」は諦めではない

「足るを知る」と聞くと、「向上心を持つな」という意味に受け取る人がいる。

それは誤解だ。

足るを知るとは、現在の自分が持っているものを正確に把握することだ。

自分が何を持っていて、何を持っていないか。何が機能していて、何が機能していないか。それを冷静に診断すること。

記事02[※3]で「自分をデバッグする」と書いた[※3]。デバッグの出発点は、今のシステムの状態を正確に把握することだ。「動いていない」という事実だけを見るのではなく、「何が動いていて、何が動いていないか」を分けて見ること。

足るを知るとは、デバッグの前の「現状把握」に他ならない。

そして、現状を正確に把握できると、不思議なことが起きる。「足りないもの」ではなく「ズレているもの」が見えるようになる。

足りないものを足す設計と、ズレているものを直す設計。後者の方が、圧倒的にコストが小さい。そして、うまくいくことが多い。


充足が冷静さを生む

もう一つ、充足感がもたらす大きな効果がある。

冷静さだ。

欠乏感の中にいると、人は焦る。「早くなんとかしなきゃ」「このままだとまずい」。この焦りは判断の精度を下げる[※4]。

一方、「今の自分は、すでに十分なものを持っている」という感覚があると、焦りが消える。焦りが消えると、視野が広がる。視野が広がると、本当のセンターピンが見える。

これは精神論ではない。設計の精度を上げるための認知の調整だ。

外科医が手術の前に深呼吸するのは、リラックスするためではない。手が震えない状態を作るためだ。設計者にとっての「足るを知る」も同じだ。冷静な判断ができる状態を、まず自分の中に作る。


「当たり前」を数えてみる

具体的に、何をすればいいか。

難しいことは何もない。自分が「当たり前」だと思っているものを、五つだけ数えてみる。

目が見えること。歩けること。食べるものがあること。話を聞いてくれる人がいること。今日、目覚めたこと。

「そんなこと、当たり前でしょう」と思うかもしれない。

でも、それは本当に当たり前だろうか。

僕は、手術台に向かう前のあの空白の数分間で、「目が見えること」が当たり前ではないと知った。中学のとき、金曜日に笑っていた同級生が月曜日にはいなくなって、「明日目覚めること」が当たり前ではないと知った。

当たり前を数えることは、欠乏感のフィルターを外す作業だ。「持っていないもの」ばかり見ている視野を、「持っているもの」に一度切り替える。

それだけで、次にやるべきことの優先順位が変わることがある。


充足から始まる設計

このシリーズの冒頭で、命は有限だから今日を自分のために使っていいと書いた[※1]。罪悪感のループを抜け出す方法も書いた[※3]。

この記事で伝えたいのは、設計者として何かを始める前に、まず「今の自分はすでに十分だ」と一度認めることの重要性だ。

それは甘えではない。むしろ、設計の精度を上げるための最も合理的な出発点だ。

「もっと」を降ろした日、景色が変わった。足りないものが減ったのではない。すでに持っているものが、見えるようになっただけだ。

その「見える」状態から始める設計は、欠乏から始める設計よりも、ずっと強い。

この記事は「認知の調整」——何が見えているかを変える話だ。次の記事では、もう一つのインフラ、「余裕」について書く[※4]。認知を整え、余裕を整え、その上で設計に入る。この順番が大事だ。


関連記事

  • [※1] 【Will&Nexus 01/49】「自分を後回し」にしていませんか。
  • [※2] 【Will&Nexus 20/49】100の課題を解くな。1つだけ倒せ。
  • [※3] 【Will&Nexus 02/49】「わかっているのに動けない」は、あなたのせいじゃない。
  • [※4] 【Will&Nexus 04/49】判断を狂わせているのは、能力じゃなく「余裕」だ。
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この記事を書いた人

Keisuke Ishinoのアバター Keisuke Ishino

石野 敬祐(Keisuke Ishino)
経営と人事の「かかりつけ医」/ Will&Nexus 代表

外資系コンサルからキャリアをスタートし、IT・業務改革コンサル、人事・組織コンサル、事業会社の人事責任者を経て独立。組織の問題のほとんどは領域の境界線にある——その確信から、経営・人事・業務・ITを横断しながら「センターピン(本当に倒すべき一手)」を見極める仕事をしている。

視界を失いかけた経験、長い介護の日々、自分のとらわれへの気づき——そうした経験が、見立ての精度と、誠実に関わるという姿勢をつくってきた。

趣味は一つに絞れない。歌、写真、ゲーム、麻雀、ボクササイズ……その時々の興味に引っ張られて、何がメインかは常に変わる。飽き性というより、好奇心が次の扉を先に開けてしまうタイプらしい。どんな領域でも「なぜこれはこう機能するのか」と考えてしまう癖は、仕事と地続きだと思っている。

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